segunda-feira, 26 de novembro de 2007

朽ちた人間のための神の愛

“神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。”(ヨハネによる福音書第3章16節)
これは聖書の中で最もよく知られ、また、よく愛されている章節です。 聖書の一つの節でキリストの福音をこれほどまでに明白にしたものはありません。 この節は、キリスト教の本質を告げている、と言えるのではないでしょうか。 もしあなたがこの節を理解するならば、同時にあなたは聖書の本質をも理解する、とも言えるでしょう。 しかし、もしあなたがそれを理解しないならば、いかに聖書に精通しても、どんなに長い間教会に通っても、どんなにあなたが自分を改善しても、そして、あなたがどんなに正しい人であったとしても-あなたは新約聖書の主要な教えを見落としているのです。  起立して、その節を声を上げて読んでみましょう。
“神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。”(ヨハネによる福音書第3章16節)
着席して下さい。
この節は4つの主な点に分ける事ができます。 
(1)神の愛;
(2)神からの賜物;
(3)神の賜物を受ける方法;
(4)この賜物を受け入れることによって生じること。
Ⅰ 最初に、この節は私達に神の愛を告げています。
“神はこの世を愛して下さった。” これは誠に注目すべき言及です。 神が朽ちた、堕落した、そして、非難されるべき世を愛しておられる、ということを考えること次第、驚くべきことです。 この“世”とは、地球を指しているのではなく、この地上に住んでいる人間のことを指しています。 人間の中に神が彼らを愛されるような根拠はどこにあるのでしょうか? この世は神を愛していません。 私は改心していない人達が、神を愛しているというようなことを聞いたことがあります。 しかし、彼らの内でだれも心をつくし、精神をつくし、思いをつくして(マタイによる福音書第22章37節、参照)真に神を愛しているのを見たことがありません。 それは、戒めであるけれども、アダムからの朽ちた子孫が従っていない戒めです。 まさにその逆が、改心していない男性や女性の有様なのです。
“なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。”(ローマ人への手紙第8章7節)
神を愛する代わりに、失われた世(人々)は、彼との関わりを望んでいません。 使徒パウロは、このことを実に明確にしており、このように言っています。
“神を求める人はいない。”(ローマ人への手紙第3章11節)
私は、この職務について48年もの間、使徒パウロが聖書の中のそのページで言っていることが間違っている、というような経験をしたことが全くありません。 
“神を求める人はいない。”(ローマ人への手紙第3章11節)
しかし、大多数の人間が、“神に敵する”(ローマ人への手紙第8章7節)という事実にもかかわらず、そして、
“神を求める人はいない。”
という事実にもかかわらず、なおかつ、(これは驚嘆させられるようなことであるが)-私達のテキストでは、“神はこの世を愛して下さった。”と言っているのです! 彼が神に敵対しており、そして“神を求める人はいない。”という事実にもかかわらず、神は人間を愛して下さるのです! これはまさにびっくりするほど驚くべきことです。 それは人間の道理では説明できません。 哲学によっても説明できません。 人間の創造した宗教などでも説明されることはできません。 実際に、もし、“神はこの世を愛して下さった。”と聖書の中で私達に明示されていなかったならば、私達はこの偉大な真実を知ることはなかったでしょう。
なお、私達はここで気をつけるべきことがあります。 ある人は神の愛について、すべての人達が受け入れられている、なぜなら、単に神は私達を愛して下さるから、と言うかもしれません。 しかし、聖書によればそうではありません。 その節をもう一度見るべきです。 それは、“神はこの世を愛して下さった。”という言葉で終わってはいません。 他の言葉がその“世”の前にあります。 聖書を見て下さい。 そこには、神はこの世を愛する“ほどに”とあります。 神はこの堕落した、反抗的な人類を救うために何かをなされたのです。 “ほどに”という言葉はとても重要です。 そしてそれが次の要点へと導きます。
Ⅱ 次に、この節は神からの偉大な賜物を示しています。
“神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。 ・・・”(ヨハネによる福音書第3章16節)
神は、本当に畏敬させられるようなことをなさいました。 なぜなら、それは失われた人間への神の偉大な愛によるものだからです。 これが神のなされたことなのです; “そのひとり子を賜わったほどに”彼は朽ちた人間を非常に愛されたのです。
そこで言っている、イエスを“賜わった”とは、どういう意味なのでしょうか? まず、神はイエスを人として賜れました。 聖書はこう言っています。
“しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、・・・”(ガラテヤ人への手紙第4章4節)
神はイエスを天から下され、彼をマリアに宿らされました。 ですから、私達のテキストが言っているように、“彼は彼のひとり子を賜わった”というように意味します。 それは、神が御自分のみわざにより、人間の父親なしで、イエスをマリアの中に宿らされた、ということが語られています。 ですから、私達のテキストはイエスを“そのひとり子”と呼んでいます。 “ひとり子”の言葉は、ギリシャ語の一つの言葉“monogéné”(モノジーニー)から訳されており、それは“ただ一人、一人の生れた子”という意味です。(Strong #3439) これはイエスが処女により誕生されたことを明示しています。 彼は比類なく、人間の父親なしで、唯一の神の子として産まれた方なのです。 それは、神がイエスを創造された、という意味ではありません。 昔の著者は、イエスは“生まれた、造られたのではない”と正確に言っています。 なぜならイエスは三位一体の二番目の方として、天国に存在しておられたからです。 しかし、彼は神によって処女に生まれました。 そうです、神がイエスをマリアに宿された時、神は彼のひとり子を“賜わった”のです。
“神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。 ・・・”(ヨハネによる福音書第3章16節)
しかし、神は他の目的のためにもイエスを“賜わった”のです。 イエスが処女によって生まれたというだけではなく、神は、そして、私達の罪が赦されるように、イエスを十字架の上で亡くなるようにも“賜わった”のです。
“しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。”(ローマ人への手紙第5章8節)
神は、私達の罪の償いをされるためにイエスを“賜わった”のです。 神は、イエスが私達の罪のために代わって償いを提供するよう、言葉にも表せないような拷問、なぐり、むち打ち、そして十字架にはりつけられることをも、身に受けられるよう“賜わった”のです。“身代わり”という言葉は、“人が他の人の場に置かれる”ということです。 キリストは、私達の罪のために身代わりとなって、課せられた報いを償われました。
“イエスを信じる者を義とされるのである。”(ローマ人への手紙第3章26節)
神の怒りと判決が、十字架につけられたイエスに下り、私達の罪は完全に償われ、聖にあられる神の義を満たされるのです。 それはイエスが私達の罪のために身代わりとなって、神により罰せられた、ということです。
“神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。 ・・・”
その“賜わった”という言葉は、救いは賜物であるという、もう一つの意図が含まれています。 あなたはそれを自分でもたらすことはできません。 それに価することもできません。 救いは賜物です。 なぜなら、神が“そのひとり子を賜わった”からです。 そして、それが三番目の要点へと導きます。
Ⅲ 三番目に、この節は私達にこの賜物を受ける方法を告げています。
“神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。”(ヨハネによる福音書第3章16節)
十字架でのキリストの“愛の賜物”の恩恵を受けることのできる唯一の道は、彼を信じることです! “を”と訳された短いギリシャ語の言葉は、ここではとても重要です。 それは“eis”(イエス)です。 それは文字通り、イエスの“内(を)”を信じることです。 これが多くの困惑を明瞭にしています。 それは聖書がイエスについて言っていることを、単に信じるのではない、ということを表しています。 そうではありません! 悪魔でさえ聖書がイエスについて言ったことを信じています。 しかし、悪魔はイエス“を”信じてません。 悪魔のような間違いをしてはいけません。 聖書が語っている、キリストについてのことをただ信じてはいけません。 そうではなく、彼“を”信じるのです。 あなたの信仰を天へ上げられた神の御子イエス・キリストに直接置きなさい。 多くの人達はイエス“を”信じないで、彼について、を信じるという間違いを犯しています。 多くの古い賛美歌は、このように明瞭にしています。
“私は主に来ます! 今、そなたに参ります!”
(”I Am Coming, Lord” by Lewis Hartsough, 1828-1919)
“今なすべき? 今なすべき? 今イエスに来るべし?“
(”Why Not Now?” by Daniel W. Whittle, 1840-1901)
そして特に、
“我、罪より去り、そなたへと、イエスよ 我そなたへと参ります” (”Jesus, I Come” by William T. Sleeper, 1819-1904)
救われる道はイエス“を”信じることです。 あなたのすべての信仰を彼に、そして、彼のみに置きなさい。
“それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、・・・”(ヨハネによる福音書第3章16節)
それがイエスを信じることによって、彼にある神の賜物を受け取る方法です。 偉大なスポルジョンが、“キリストに横たわる”と表現しているように、キリストだけ信頼しなさい。 それが神の賜物を受け取る方法です。 ジョセフ・ハートが表現しているように、
“彼に冒険せよ、すべてをかけて:他の何ものをも信頼せず、妨げられず:イエスだけを、イエスだけを、望みもない罪人が信頼できる。“
(”Come, Ye Sinners” by Joseph Hart, 1712-1768)
スポルジョンはこう言っています。
あなたの罪を、イエスの介護のもとへ置きなさい;意識的にしなさい。 すべての他の望みを思い切って諦めなさい。 イエスに冒険しなさい/を試みなさい・・・イエスにあなた自身を、ただ投げ込みなさい。 イエスを信じ、彼に信頼しなさい。 そうすれば、あなたの確信に対して、けっして恥とされることはないでしょう。 “彼に信頼するものは、まごつくことはない。”(C. H. Spurgeon, Around the Wicket Gate, Christian Focus Publications, 1987 edition, pages 26-27)
あなたのすべての信頼をイエスに置きなさい。 それが私達のテキスト、“それは御子を信じる者がひとりも滅びないで・・・”(ヨハネによる福音書第3章16節)が伝えていることです。 そして、それは私達の最後の要点へと導きます。
Ⅳ 最後に、この節はキリストの賜物を受け入れた成果を告げています。
それを見て、声を上げて読んで下さい。
“・・・それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。”(ヨハネによる福音書第3章16節)
あなたが信仰によりイエスに来、そして、信仰により彼“を”信じる時、あなたは二つの恩恵(特権)が瞬時に受けられます。 最初にあなたは滅びることがないでしょう。 それは、あなたは黄泉に落ちないということです。 イエスに信頼した人はだれでも、イエス“を”信じた人はだれでも、黄泉の炎の中で滅びることはありません。 何故でしょうか? それはイエスがこう言われているからです。
“わたしは、彼らに永遠の命を与える。 だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、”(ヨハネによる福音書第10章28節)
あなたの信仰が些細なものであれ、また、弱かれ、あなたがその信仰をもってイエスに来、彼を信頼した瞬間、あなたは永遠に確保され、永遠に救われるのです。 その救いをなさるのはイエスであって、あなたの彼への信仰の大きさではありません。 
ですから、最初に、信仰によりイエスを信じたことの成果がもたらすことは、あなたはけっして滅びることはない、ということです。 あなたが彼を信頼し信仰により彼に来たその瞬間、死から命へと移っていくのです。
二番目の恩恵(特権)として、あなたがイエスを信じ彼に来ると同時に、あなたは永遠の命を受ける、ということです。 あなたは永遠の命へと生まれ変わり、そして、それはあなたから取り去られることはけっしてありません。 “彼らはいつまでも滅びることがなく”(ヨハネによる福音書第10章28節)
何とすばらしい約束ではありませんか! 何と驚くべき望みではありませんか! もう一度起立して、ヨハネによる福音書第3章16節を声を上げて読んで下さい。
“神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。”(ヨハネによる福音書第3章16節)
スポルジョンが表現しているように、イエスを信じ、彼に信頼を置き、そして、彼に“横たわる”ことを望みませんか? では、私たちが最後の節を歌っている間、そっと席をはずし、すみやかに後方へ出て下さい。 ケイガン先生、メンシーヤ氏、そして私も、あなた方をカウンセリングをします。 神があなた方を祝福され、今朝あなた方がイエスに信頼することを助けて下さるように。 
“私の悲しみ、そして暗闇の境遇より出て、イエスよ、私は来ます。 イエスよ、私は来ます。:そなたの解放、喜び、そして光へと、イエスよ、私はあなたに来ます。“ (”Jesus, I Come” by William T. Sleeper, 1819-1904)
(説教終了)ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。 住所:www.realconversion.com (Sermon Manuscripts) をクリックしてください。
クレイトン L チャン医師 (Dr. Kreighton L. Chan) による説教前の聖書朗読: ヨハネによる福音書第3章14-18節 ベンジャミン キンケイド グリフィス氏 (Mr. Benjamin Kincaid Griffith) による説教前の独唱: “Jesus, I Come”(by William T. Sleeper, 1819-1904)
要 綱
朽ちた人間のための神の愛
ロバート ハイマース 神学博士 著
“神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。”(ヨハネによる福音書第3章16節)

主日,二○○六年四月三十日 早 於洛杉磯浸信會幕所宣之道

「神愛世人,甚至將他的獨生子賜給他們,叫一切信他的,不至滅亡,反得永生」(約翰福音 3:16)。
這就是聖經裡最廣為人知、最被人所喜愛的一句經文。經卷裡沒有其他任何一節經文把福音表達得如此清晰了。我甚至可以說,這節經文表明了基督教的精髓。如果你理解這句經文,你便理解了聖經的核心。但如果你不理解這節經文,無論你參加教會多久,無論你如何改良自我,或無論你多善良 - 你仍然錯過了新約的中心教義。讓我們再讀一次這節經文﹕
「神愛世人,甚至將他的獨生子賜給他們,叫一切信他的,不至滅亡,反得永生」(約翰福音 3:16)。
這節經文可以分成四個部分﹕
(1)神的愛;
(2)神的禮物;
(3)如何接受這禮物;
(4)接受這禮物的結果。
I. 第一,這節經文告訴了我們神的愛。
「神愛世人」。 這的確是一句非同尋常的話。值得我們注意的是,神愛的是一個墮落、毀壞、並深懷罪惡的人類。「世人」二字指的是全人類。到底這人類有什麼值得神愛呢?世人根本不愛神。我只不過聽人說他們愛神,但卻從未見人真正去盡心、盡性、盡意愛神的(參: 太22:37)。此乃一條戒命,但沒有一個亞當墮落的子孫能夠去遵守。相反,未得轉變的男女總是 -
「體貼肉體的,就是與神為仇」(羅馬人書 8:7)。
失喪的世俗不單只不愛神,他們連與祂沾邊都不肯。使徒保羅清楚地指出,
「沒有尋求神的」(羅馬人書 3:11)。
我傳教四十八年之後,還從未發現在聖經上保羅所講的這句話錯了﹕
「沒有尋求神的」(羅馬人書 3:11)。
即使人間世俗「與神為仇」 (羅馬人書 8:7),即使現實狀況是,
「沒有尋求神的」(羅馬人書 3:11),
但(這便是令人如此驚奇的)- 我們的經文仍然告訴我們,「神愛世人」!神對世人的愛,超越了人對神的反叛,超越了「沒有尋求神的」現實。盡管人的邪惡,神仍然愛世人!這確實令人詫異吃驚。這是無法用邏輯、用哲理來加以解釋的,更不能用人造的信仰來加以說明。實際上,如果不是「神愛世人」、並通過聖經向我們啟示了一切,這道理便根本無法被人所認識。
在此,我必須提醒大家一句話。有人說,因為神的愛,我們都被神所接受了。但是,按聖經來講並非如此。你必須仔細重讀一下這節經文。經文並沒有結束在「神愛世人」上。看向聖經。經文說,神愛世人,甚至於行出某種作為,來拯救這墮落與反叛的種類。"甚至"兩字非常重要。這便是我們要講的第二點。
II. 第二,這節經文告訴了我們神非凡的禮物。
「神愛世人,甚至將他的獨生子賜給他們」 (約翰 3:16)。
神作出了一件極為"驚人"的事情。是的,這已被用爛的"驚人"二字在此確實適用!因其對人類極大的愛,神作出了一件的的確確驚人的事。祂因對墮落人類的大愛,「甚至將祂的獨生子賜給他們」。
「賜給」二字的希臘原文是什麼意思呢?首先,道成肉身時,神賜了這禮物。聖經說,
「及至時候滿足,神就差遣他的兒子,為女子所生...」(加拉太書 4:4)。
神從上天差下祂的兒子,將祂置放在瑪利亞的胎中。當我們經文談到「將祂的獨生子賜給他們」時,講的正是這件事。這意味著神以超自然的方式、在沒有一位人類父親的狀態下、將耶穌放入童貞女瑪利亞的胎內。這便是我們經文稱耶穌為「獨生子」的原因。被翻譯成"獨生"的希臘原文是"μονογενή (monogēnē)",意思是「獨一無二的,唯一的孩子」(斯特朗 #3439),也就是說,耶穌為童貞女所生。祂是獨一無二、神生下的兒子,沒有人類父親。但這不意味著神創造了祂。傳統作家正確地說,耶穌是「神生的,但卻不是被造的」,因為耶穌作為三位一體的第二位,早就在天上存在了,但卻在童貞女的胎中被神所生。是的,當神通過瑪利亞生下耶穌時,祂將自己的兒子「賜給」了世人。
「神愛世人,甚至將他的獨生子賜給他們...」(約翰 3:16)。
但神還以另一種方式將耶穌「賜給」我們。耶穌不僅被賜生於童貞女的胎中,祂還被賜死在十架上,來擔待、原諒我們的罪孽。聖經說,
「惟有基督在我們還作罪人的時候為我們死,神的愛就在此向我們顯明了」(羅馬人書 5:8)。
神「賜」耶穌死在十架上來償還我們的罪。神賜耶穌來經歷了不可言喻的折磨、毒打、鞭撻,最後被釘死在十架上,來代替我們作贖罪的祭獻。「代替」的意思就是「一個人代替了另一個人的地位」。基督代替我們去死,還清了對我們罪孽的處罰。如此,神
「好在今時顯明他的義,使人知道他自己為義,也稱信耶穌的人為義」(羅馬人書 3:26)。
憤怒與處罰落在了耶穌的頭上。祂在十架上還清了我們的罪債,令正義與聖潔的神得到了滿足。耶穌代替我們、為我們的罪、接受了神的懲罰。
「神愛世人,甚至將他的獨生子賜給他們...」(約翰 3:16)。
「賜給」二字還有另一層含義 - 救恩是一個禮物。你不能贏得一份禮物。你不配得到禮物。救恩是神賜的「獨生子」,是一份無價的禮物。
III. 第三,這節經文告訴我們如何來接受這禮物。
「神愛世人,甚至將他的獨生子賜給他們,叫一切信他的,不至滅亡,反得永生」(約翰福音 3:16)。
你接受基督十架上「愛的禮物」的唯一方式,便是通過相信祂!「相信」的希臘原文中含有一個非常重要的小介詞"εíç (eis)",意思是"進入"的意思。字面上是說,信耶穌要信進去。這便清除了許多有關信主的迷惑。這證明,我們不僅要信有關耶穌的教義。不,不是!魔鬼也信聖經講的有關耶穌的事情,但魔鬼沒有信「進」耶穌。不要犯魔鬼所犯的錯誤。不要僅僅信有關耶穌的教義。要真正信「進去」。把你的信念置在上天神的兒子耶穌之中。許多人犯的錯誤就是,他們信有關耶穌的事情,卻沒有信「進」祂本人。許多聖詩講的很清楚﹕
「主阿,我今來,我今來就你!」
(“I Am Coming, Lord”詞: Lewis Hartsough, 1828-1919)。
「趁現在,趁現在,現在就來信耶穌。」
(“Why Not Now?”詞: Daniel W. Whittle, 1840-1901)。
尤其是這首歌﹕
「脫離我罪,進入您自己, 耶穌,我來就你。」-《耶穌,我來》。 ("Jesus, I Come," 詞: William T. Sleeper, 1819-1904。)
得救的途徑便是信「入」耶穌,將你全部的信念放在祂裏面,並僅在祂裏面。
「叫一切信〔入〕他的, 不至滅亡, 反得永生」(約翰 3:16)。
那便是接受神通過基督所賜愛的禮物的方式,靠信,並進入祂。如知名的司布真所講的,「平躺在基督之上」。僅信耶穌一人。那才是接受神禮物的方式。約瑟夫.哈特(Joseph Hart)如此寫道﹕
「在祂身上冒險,全心投入, 莫讓任何事情來分心; 僅有耶穌,僅有耶穌, 能對無助的罪人有益處。」 ("Come, Ye Sinners" 詞: Joseph Hart, 1712-1768)
司布真講到,
將你的罪孽放在祂的關照之下;有意這樣去作。膽敢放棄一切其他希望。在耶穌身上冒險... 完全將自己投向耶穌... 信靠祂,信進耶穌,你便永遠不會因你的信心而羞恥。「信靠他的人,必不至於羞愧」(C. H. Spurgeon, Around the Wic­ket Gate, Christian Focus Publications, 1987 ed., pp. 26-27).
將你的全部信念放在耶穌之中。那便是我們的經文所講的。「叫一切信〔入〕他的, 不至滅亡...」(約翰福音 3:16)。 這便引我們到以下第四點,今天的最後一點。
IV. 第四,這節經文告訴我們接受這禮物的結果。
看向聖經。再讀一下我們的經文﹕
「...叫一切信他的,不至滅亡,反得永生」(約翰 3:16).
當你來到耶穌這裏,靠信念信"進"祂時,你即刻得到兩樣益處。首先你不至滅亡。這意味著你不會進入地獄。沒有一個信靠耶穌的人、沒有一個"進入"耶穌的人、會在地獄的火焰中滅亡。為什麼?因為耶穌說過,
「我又賜給他們永生,他們永不滅亡」(約翰福音 10:28)。
你靠信念(無論這信念如何軟弱)來到耶穌這裏,你將會永遠安全,在永恆中得救了。拯救你的是耶穌,並非你對祂信念的強若。
因此,你相信耶穌的第一個益處便是,你用不至滅亡。你信的那時刻起,你便從滅亡進入了生命。
第二個益處便是,當你靠信念信靠耶穌後,你便即刻得到了永生。你得到了重生,進入了永生,無人能夠將這奪走。「他們永不滅亡」 (約翰10:28)。
多麼美妙的保障!多麼神奇的希望!讓我們再一次讀一下約翰福音3:16 。
「神愛世人,甚至將他的獨生子賜給他們,叫一切信他的,不至滅亡,反得永生」(約翰福音 3:16)。
你願不願意信耶穌,倚靠祂,如司布真所講的那樣,"平躺"在耶穌之上?那當我們唱最後一首聖詩的時候,離開你的座位,走到禮堂後面去。我和凱根博士、暪西亞先生(Dr. Cagan, Mr. Mencia)會與你談話咨詢。願神賜福,並幫助你今早信靠耶穌。當我們站起來唱歌頁上最後一首聖詩時,走到後面去。凱根博士會帶你去我的辦公室內,我們會與你交談咨詢幾分鐘。
「脫離捆綁,憂愁,黑影, 耶穌,我來!耶穌,我來!進入自由,喜樂與光明, 耶穌,我來就你。」-《耶穌,我來》。 ("Jesus, I Come," 詞: William T. Sleeper, 1819-1904。)
(宣道結束)你可以每週上網讀何博士講的道。網址: http://www.realconversion.com; 然後點擊〔宣道文稿〕鍵。
宣道前陳群忠醫生(Dr. K. L. Chan)領讀經文﹕約翰福音 3:14-18。 宣道前葛利費斯先生(Mr. Benjamin Kincaid Griffith)獨唱:《耶穌,我來》, "Jesus, I Come" (詞﹕William T. Sleeper, 1819-1904)。
宣道提綱
神對墮落之人的愛
何博士著
「神愛世人,甚至將他的獨生子賜給他們,叫一切信他的,不至滅亡,反得永生」(約翰福音 3:16)。

GOD’S LOVE FOR FALLEN MAN

“For God so loved the world, that he gave his only begotten Son, that whosoever believeth in him should not perish, but have everlasting life” (John 3:16).

This is the most well-known and well-loved verse in the Bible. No single verse of Scripture makes the gospel of Christ plainer. I would go so far as to say that it gives the very essence of Christianity. If you understand this verse, then you understand the heart of the Bible.
But if you do not understand it, no matter how much you study the Scriptures, no matter how long you attend church, no matter how much you reform yourself, or how good you are - you have missed the central teaching of the New Testament. Let us stand and read it aloud.
“For God so loved the world, that he gave his only begotten Son, that whosoever believeth in him should not perish, but have everlasting life” (John 3:16).

You may be seated.
This verse can be divided into four main points:
(1) The love of God;
(2) The gift of God;
(3) The way to receive God’s gift;
(4) The results of receiving this gift.

I. First, the verse tells us of the love of God.

“For God so loved the world.” That is a truly remarkable statement. It is remarkable to think that God loves a fallen, ruined and guilty world. The word “world” here does not refer to the earth, but to mankind that lives on the earth. What is there in humanity that would cause God to love them? The world does not love God. I have heard unconverted people say they love Him, but I have never seen any of them who really love God with all their heart, and with all their soul, and with all their mind (cf. Matthew 22:37). It is a commandment, but it is a commandment that no fallen child of Adam obeys. Just the opposite is true of unconverted men and women -

“Because the carnal mind is enmity against God” (Romans 8:7).

Instead of loving God, the lost world wants nothing to do with Him. The Apostle Paul made this very clear when he said,

“There is none that seeketh after God” (Romans 3:11).

After 48 years in the ministry, I have never known the Apostle to be wrong when he said that on the sacred page of Scripture,

“There is none that seeketh after God” (Romans 3:11).
Yet, in spite of the fact that the masses of humanity are “against God” (Romans 8:7), and in spite of the fact that

“There is none that seeketh after God,”

yet (and this is what makes it so amazing) - and yet, our text says, “For God so loved the world”! God loves mankind in spite of the fact that they are against Him, and in spite of the fact that “There is none that seeketh” for Him. Yet He loves the world! This is truly startling and amazing. It cannot be explained by human logic. It cannot be explained by philosophy. It cannot be explained by man-made religion. In fact, we would not know this great truth if it had not been revealed to us in the Bible, “For God so loved the world.”

Now, we must be careful here. Some tell us that God’s love means that all are accepted simply because God loves us. But, according to the Bible, this is not so. You must look at the verse again. It doesn’t end with the words, “God so loved the world.” There’s another word after the word “world.” Look at it in the Bible. It says God loves the world so much “that” He did something to save this ruined and rebellious race. The word “that” is very important. And that takes us to the second point.

II. Second, the verse tells us of God’s great gift.

“For God so loved the world, that he gave his only begotten Son…” (John 3:16).

God did something truly awesome. Yes, that overused word “awesome” really applies here! God did something really and truly awesome because of His great love for lost mankind. This is what God did: he loved fallen man so much “that he gave his only begotten Son.”

What does it mean when it says “he gave” Jesus? First, God gave Jesus at the incarnation. The Bible says,

“When the fullness of the time was come, God sent forth his Son, made of a woman…” (Galatians 4:4).

God sent Jesus down from Heaven and put Him in the womb of Mary. So, when our text says, “he gave his only begotten Son,” it refers to that. It speaks of God putting Jesus into the womb of Mary supernaturally, without a human father. That’s why our text calls Jesus, “his only begotten Son.” The words “only begotten” are translated from a single Greek word, “monogēnē,” which means “sole, only begotten child” (Strong #3439). This refers to the virgin birth of Jesus. He is uniquely the only procreated Son of God, without a human father. It does not mean that God created Him. The old writers correctly said that Jesus was “begotten, not made,” because Jesus existed in Heaven as the Second Person of the Trinity, but He was begotten in the womb of the virgin by God. Yes, God “gave” His Son when He begat Him in the Mary’s womb.

“For God so loved the world, that he gave his only begotten Son…” (John 3:16).

But God “gave” Jesus in another way. Not only was Jesus given to be born of a virgin, God also “gave” Him to die on the Cross so our sins could be forgiven. The Bible says,
“God commendeth [gives] his love toward us, in that, while we were yet sinners, Christ died for us” (Romans 5:8).

God “gave” Jesus to die on the Cross to pay for our sins. God gave Him to undergo unspeakable torture, beatings, floggings, nailed to the Cross, to provide a vicarious atonement for our sins. “Vicarious” means “one person in the place of another.” Christ died in our place, to pay the penalty for our sins. So that God
“might be just, and the justifier of him which believeth in Jesus” (Romans 3:26).

The wrath and judgment of God fell on Jesus on the Cross, making the full payment of our sin-debt and satisfying the justice of a holy God. That means Jesus was punished by God in our place, for our sins.
“For God so loved the world, that he gave his only begotten Son…”
The word “gave” contains yet one more idea - that salvation is a gift. You can’t earn it. You can’t merit it. Salvation is a free gift because God “gave his only begotten Son.” And that takes us to the third point.

III. Third, the verse tells us the way to receive this gift.

“For God so loved the world, that he gave his only begotten Son, that whosoever believeth in him should not perish…” (John 3:16).

The only way you can receive the benefits of Christ’s “love gift” on the Cross is by believing in Him! The little Greek word translated “in” is very important here. It is “eis.” It means, literally, to believe “into” Jesus. This clears up much confusion. It shows that we are not merely to believe what the Bible says about Jesus. No, no! The Devil believes what the Bible says about Jesus. But the Devil does not believe “into” Jesus. Don’t make the mistake of the Devil. Don’t just believe what the Bible says about Christ. Instead believe “into” Him. Put your faith directly into Jesus Christ, the risen Son of God in Heaven. So many have made the mistake of believing about Jesus without believing “into” Him. Many of the old songs make this clear.

“I am coming, Lord! Coming now to Thee!”

(“I Am Coming, Lord” by Lewis Hartsough, 1828-1919).

“Why not now? Why not now? Why not come to Jesus now?”

(“Why Not Now?” by Daniel W. Whittle, 1840-1901).
And especially,
“Out of my sin and into Thyself, Jesus, I come to Thee”

(“Jesus, I Come” by William T. Sleeper, 1819-1904).

The way to be saved is to believe “into” Jesus. Put your whole faith into Him and Him alone.
“That whosoever believeth in [into] him should not perish…” (John 3:16).

That’s the way you receive the loving gift of God in Christ, by believing into Him. As great Spurgeon put it, “Lie flat on Christ.” Trust Jesus alone. That’s the way you receive God’s gift. As Joseph Hart put it,

“Venture on Him, venture wholly: Let no other trust intrude: None but Jesus, none but Jesus, Can do helpless sinners good.” (“Come, Ye Sinners” by Joseph Hart, 1712-1768).

Spurgeon said,
Put your sins into His care; do it deliberately. Dare to [give] up all other hopes. Venture on Jesus…Cast yourself simply on Jesus…believe in Him, and trust in Him, and you shall never be made ashamed of your confidence. “He that believeth on Him shall not be confounded” (C. H. Spurgeon, Around the Wicket Gate, Christian Focus Publications, 1987 edition, pages 26-27).
Put your whole trust in Jesus. That’s what it means in our text, “That whosoever believeth in him should not perish…” (John 3:16).
And that takes us to the fourth and last point.

IV. Fourth, the verse tells us the results of receiving the gift of Christ.

Look at it, please. Read it out loud.

“…that whosoever believeth in him should not perish, but have everlasting life” (John 3:16).
When you come to Jesus by faith and believe “into” Him by faith you receive two benefits instantly. First, you will not perish. That means you will not go to Hell. No person who has trusted Jesus, no person who has believed “into” Jesus will ever perish in the flames of Hell. Why? Because Jesus said,
“I give unto them eternal life; and they shall never perish” (John 10:28).

You are eternally secure, saved for all eternity, the moment you trust Jesus by coming to Him in faith, small and weak though that faith may be. It is Jesus who does the saving, not the amount of faith you have in Him.

So, the first result of believing in Jesus by faith is that you will never perish. You will have passed from death into life the very moment you trust Him, coming to Him in faith.
The second result, when you come to Jesus and believe in Him, is that you will instantly receive eternal life. You are born again into eternal life, and it cannot ever be taken away from you. “They shall never perish” (John 10:28).

What a wonderful promise! What a marvelous hope! Stand one more time and read John 3:16 aloud.

“For God so loved the world, that he gave his only begotten Son, that whosoever believeth in him should not perish, but have everlasting life” (John 3:16).

Would you like to believe in Jesus, trusting in Him, “laying flat” on Him, as Spurgeon put it? Then, as we sing, slip out of your chair and walk to the back of the room quickly as we sing the last song. Dr. Cagan, Mr. Mencia and I will be there to help counsel you. May God bless you and help you to trust Jesus this very morning. Stand as we sing the last hymn on the song sheet. Slip out to the back of the room as we sing and Dr. Cagan will take you up to my office where we can talk together.

“Out of my bondage, sorrow and night,
Jesus, I come, Jesus, I come: Into Thy freedom, gladness and light,
Jesus, I come to Thee.”
(“Jesus, I Come” by William T. Sleeper, 1819-1904).


You can read Dr. Hymers' sermons each week on the Internetat www.realconversion.com.
Click on "Sermon Manuscripts."

Scripture Read Before the Sermon by Dr. Kreighton L. Chan: John 3:14-18. Solo Sung Before the Sermon by Mr. Benjamin Kincaid Griffith: “Jesus, I Come” (by William T. Sleeper, 1819-1904).

THE OUTLINE OF
GOD’S LOVE FOR FALLEN MAN
by Dr. R. L. Hymers, Jr.
“For God so loved the world, that he gave his only begotten Son, that whosoever believeth in him should not perish, but have everlasting life” (John 3:16).

KASIH ALLAH UNTUK MANUSIA YANG TELAH JATUH KE DALAM DOSA

“Karena begitu besar kasih Allah akan dunia ini, sehingga Ia telah mengaruniakan Anak-Nya yang tunggal, supaya setiap orang yang percaya kepada-Nya tidak binasa, melainkan beroleh hidup yang kekal” (Yohanes 3:16)

Ini adalah ayat yang paling terkenal di dalam Alkitab dan yang paling disukai. Tidak ada ayat Alkitab yang menjelaskan Injil Kristus yang lebih jelas dari ayat ini. Saya akan melangkah lebih jauh untuk mengatakan bahwa ayat ini memberikan esensi Kekristenan yang paling mendasar. Jika Anda memahami ayat ini, maka Anda akan memahami jantung [inti] Alkitab. Namun jika Anda tidak memahami ayat ini, tidak perduli sudah berapa banyak Anda mempelajari Alkitab, tidak perduli sudah berapa lama Anda menghadiri gereja, tidak perduli sudah berapa banyak Anda memperbaharui diri Anda sendiri, atau seberapa baiknya Anda - Anda telah kehilangan inti pengajaran dari Perjanjian Baru. Marilah kita berdiri dan membaca ayat ini dengan suara keras.

“Karena begitu besar kasih Allah akan dunia ini, sehingga Ia telah mengaruniakan Anak-Nya yang tunggal, supaya setiap orang yang percaya kepada-Nya tidak binasa, melainkan beroleh hidup yang kekal” (Yohanes 3:16)

Silahkan duduk kembali.

Ayat ini dapat dibagi menjadi empat poin utama, yaitu:
(1) Kasih Allah;
(2) Pemberian Allah;
(3) Cara menerima pemberian Allah;
(4) Berkat-berkat dari penerimaan terhadap pemberian itu.

I. Pertama, ayat ini menjelaskan kepada kita tentang kasih Allah.

“Karena begitu besar kasih Allah akan dunia ini.” Ini adalah pernyataan yang benar-benar luar biasa. Ini adalah sesuatu yang luar biasa ketika berpikir bahwa Allah mengasihi dunia yang telah jatuh ke dalam dosa, penuh dengan dosa dan bobrok. Kata “dunia” di sini tidak berhubungan dengan bumi, namun berhubungan dengan umat manusia yang hidup di muka bumi ini. Apakah yang ada di dalam diri manusia yang menyebabkan Allah mengasihi mereka?
Dunia tidak mengasihi Allah. Saya pernah mendengar orang-orang yang belum bertobat berkata bahwa mereka mengasihi Dia, namun saya belum pernah melihat satu pun dari mereka yang benar-benar mengasihi Allah dengan sepenuh hati mereka, dan dengan sepenuh jiwa mereka, dan dengan sepenuh pikiran mereka (band. Matius 22:37).
Ini adalah perintah Tuhan, namun ini adalah perintah yang tidak mungkin ditaati oleh keturunan Adam yang telah jatuh ke dalam dosa. Orang-orang yang belum bertobat adalah musuh Allah --
“Sebab keinginan daging adalah perseteruan terhadap Allah” (Roman 8:7).
Dari pada mengasihi Allah, dunia yang terhilang lebih suka untuk tidak melakukan apapun bagi Dia. Rasul Paulus membuat ini sangat jelas ketika ia berkata,
“Tidak ada seorangpun yang mencari Allah” (Roman 3:11).
Setelah 48 tahun dalam pelayanan, saya tidak menemukan kesalahan dari apa yang di katakan oleh Rasul ini, ketika ia berkata dalam Kitab Suci ini,
“Tidak ada seorangpun yang mencari Allah” (Roman 3:11).
Namun, kendati fakta bahwa pada kenyataannya semua manusia “memusuhi Allah” (Roma 8:7), dan kendati pun ada fakta bahwa
“Tidak ada seorangpun yang mencari Allah,”
namun (dan ini yang membuat begitu mengherankan) - dan namun, teks kita berkata, “Karena begitu besar kasih Allah akan dunia ini”! Allah mengasihi umat manusia kendati pun “tidak ada seorangpun mencari” Dia. Namun Dia mengasihi dunia ini! Ini adalah kebenaran yang mengagumkan dan luar biasa. Ini tidak dapat dijelaskan dengan logika manusia. Ini tidak dapat dijelaskan dengan filsafat. Ini tidak dapat dijelaskan dengan agama buatan manusia. Pada kenyataannya, kita tidak akan memahami kebenaran agung ini jika ini tidak disingkapkan dalam Alkitab. “Karena begitu besar kasih Allah akan dunia ini.”
Sekarang, kita harus berhati-hati di sini. Beberapa orang menjelaskan kepada saya bahwa kasih Allah berarti bahwa semua manusia akan diterima-Nya karena Allah mengasihi kita. Namun, menurut Alkitb, ini tidaklah demikian.Anda harus melihat ayat ini kembali. Ayat ini tidak diakhiri dengan perkataan, “Allah begitu mengasihi dunia ini.” Ada kata-kata yang lain yang mengikuti kata “dunia” ini. Lihatlah kembali ayat ini dalam Alkitab. Di sini dikatakan bahwa Allah mengasihi dunia ini “sehingga” Dia melakukan sesuatu untuk menyelamatkan manusia yang telah rusak dan memberontak ini. Kata “sehingga” ini sangat penting. Dan itu membawa kita kepada poin kedua.
II. Kedua, ayat ini menjelaskan kepada kita tentang pemberian agung Allah.
“Karena begitu besar kasih Allah akan dunia ini, sehingga Ia telah mengaruniakan Anak-Nya yang tunggal….” (Yohanes 3:16).
Allah telah melakukan sesuatu yang benar-benar mengagumkan. Ya, kata “mengagumkan” sangat cocok dipakai di sini! Allah melakukan sesuatu yang benar-benar mengagumkan karena kasihnya yang begitu besar kepada manusia yang terhilang. Itu lah apa yang Allah maksudkan bahwa: Ia begitu mengasihi manusia yang telah jatuh ke dalam dosa “sehingga Ia memberikan Anak-Nya yang tunggal.”
Apakah yang dimaksudkan dengan perkataan “Ia memberikan” Yesus? Pertama, Allah memberikan Yesus pada saat inkarnasi. Alkitab berkata,
“Tetapi setelah genap waktunya, maka Allah mengutus Anak-Nya, yang lahir dari seorang perempuan…” (Galatia 4:4).
Allah mengirim Yesus dari Sorga dan menempatkan Dia dalam rahim Maria. Sehingga, kemudian teks kita berkata, “Ia telah mengaruniakan Anak-Nya yang tunggal,” ini berhubungan dengan hal itu. Ini berbicara tentang Allah yang menempatkan Yesus ke dalam rahim Maria secara supranatural, tanpa ayah manusia [secara biologis]. Itulah sebabnya mengapa teks kita menyebut Yesus sebagai, “Anak-Nya yang tunggal.” Kata “yang tunggal” diterjemahkan dari kata Yunani, “monogçnç,” yang berarti “sole, only begotten child” Strong #3439). Ini berhubungan dengan kelahiran Yesus dari anak dara. Dia adalah unik, tidak memiliki bapak biologis manusia. Ini bukan berarti Allah telah menciptakan Dia. Para penulis zaman dulu menjelaskan dengan benar bahwa Yesus adalah“begotten, not made,” karena Yesus ada di Sorga sebagai Pribadi Kedua dari Trinitas, namun Dia dikandung dalam rahim anak dara oleh karena Allah. Ya, Allah “memberikan” Anak-Nya ketika Dia menempatkan Dia dalam rahim Maria.
“Karena begitu besar kasih Allah akan dunia ini, sehingga Ia telah mengaruniakan Anak-Nya yang tunggal….” (Yohanes 3:16).
Namun Allah “memberikan” Yesus dengan cara lain, yaitu Dia bukan hanya memberikan Yesus melalui dilahirkan oleh anak dara, namun Allah juga “memberikan” Dia untuk mati di atas kayu Salib agar dosa-dosa kita diampuni. Alkitab berkata,
“Allah menunjukkan kasih-Nya kepada kita, oleh karena Kristus telah mati untuk kita, ketika kita masih berdosa” (Roma 5:8).
Allah “memberikan” Yesus untuk mati di atas kayu Salib demi membayar dosa-dosa kita. Allah memberikan Dia mengalami siksaan kejam yang tak terkatakan, pukulan, cambukan dan dipakukan di atas kayu salib, untuk menyediakan penebusan penggantian bagi dosa-dosa kita. “Penggantian” berarti “seseorang yang menggantikan tempat orang lain.” Kristus mati menggantikan tempat kita, untuk membayar hukuman dosa-dosa kita. Sehingga Allah
“menunjukkan keadilan-Nya pada masa ini, supaya nyata, bahwa Ia benar dan juga membenarkan orang yang percaya kepada Yesus” (Roma 3:26).
Murka dan penghakiman Allah dijatuhkan ke atas Yesus di kayu Salib, membuat pembayaran lunas hutang-hutang dosa kita dan untuk memuaskan keadilan Allah yang kudus. Itu berarti bahwa Yesus dihukum Allah dalam menggantikan tempat kita, untuk dosa-dosa kita.
“Karena begitu besar kasih Allah akan dunia ini, sehingga Ia telah mengaruniakan Anak-Nya yang tunggal….” (Yohanes 3:16).
Kata “mengaruniakan” berisi satu gagasan lagi - yaitu bahwa keselamatan adalah suatu pemberian. Anda tidak dapat memperolehnya. Anda tidak pantas menerimanya. Keselamatan adalah pemberian cuma-cuma karena Allah “mengaruniakan Anak-Nya yang tunggal.” Dan itu membawa kita kepada poin berikutnya.
III. Ketiga, ayat ini menjelaskan kepada kita bagaimana cara memperoleh pemberian itu.
“Karena begitu besar kasih Allah akan dunia ini, sehingga Ia telah mengaruniakan Anak-Nya yang tunggal, supaya barangsiapa yang percaya kepada-Nya tidak binasa….” (Yohanes 3:16)
Satu-satunya cara agar Anda menerima berkat dari “pemberian kasih” Kristus di atas adalah dengan percaya di dalam Dia! Kata Yunani yang diterjemahkan “in” (dalam bahasa Inggris) dan “kepada” (dalam bahasa Indonesia) ini sangat penting. Ini adalah “eis.” Secara literal ini berarti percaya “ke dalam” Yesus. Ini membuat jernih banyak kebingungan. Ini menunjukkan bahwa kita bukan sekedar percaya apa yang Alkitab katakan tentang Yesus. Tidak, tidak! Iblis juga percaya tentang apa yang Alkitab katakan tentang Yesus. Namun iblis tidak percaya “ke dalam” Yesus. Jangan membuat kesalahan yang sama dengan iblis. Jangan hanya percaya apa yang Alkitab katakan tentang Kristus. Namun percayalah “ke dalam” Dia. Letakkanlah iman Anda langsung ke dalam Yesus Kristus, Anak Allah yang telah bangkit dan naik ke Sorga. Begitu banyak orang yang membuat kesalahan dengan percaya tentang Yesus tanpa percaya “ke dalam” Yesus. Banyak lagu-lagu jaman dulu yang membuat ini menjadi jelas.
“Ku datang, Tuhan! Datang pada-Mu! (“I Am Coming, Lord” by Lewis Hartsough, 1828-1919).
“Mengapa bukan sekarang? Mengapa bukan sekarang? Mengapa bukan sekarang datang kepada Yesus?” (“Why Not Now?” by Daniel W. Whittle, 1840-1901).
Dan khususnya,
“Keluar dari dosaku dan masuk ke dalam - Mu sendiri, Yesus, aku datang kepada Mu” (“Jesus, I Come” by William T. Sleeper, 1819-1904).
Cara agar kita diselamatkan adalah percaya “ke dalam” Yesus. Letakkanlah seluruh iman Anda ke dalam Dia dan hanya Dia saja.
“Barangsiapa percaya kepada [ke dalam] Dia tidak akan binasa…” (Yohanes 3:16).
Itulah cara Anda menerima pemberian kasih Allah di dalam Kristus, yaitu dengan percaya ke dalam Dia. Seperti Spurgeon menekankanya, “Lie flat on Christ.” Percayalah kepada Yesus saja. Itulah cara Anda menerima pemberian Allah. Seperti Joseph Hart menekankan itu,
“Pengembara datanglah kepada Dia; Biarlah tiada kepercayaan lain yang menghalanginyaTiada lain selain Yesus, tiada lain selain Yesus Yang dapat menolong orang-orang berdosa (“Come, Ye Sinners” by Joseph Hart, 1712-1768).
Spurgeon berkata,
Letakkanlah dosa-dosa Anda ke dalam kepedulian-Nya; lakukan itu dengan bebas. Berani membuang semua pengharapan yang lainya [selain Dia]. Pengembara datanglah kepada Yesus… Lemparkan dirimu sendiri hanya kepada Yesus… percayalah di dalam Dia dan berimanlah di dalam Dia, dan Anda tidak akan pernah dibuat malu oleh percaya diri Anda. “Ia yang percaya kepada Dia tidak akan dipermalukan” (C. H. Spurgeon, Around the Wicket Gate, Christian Focus Publications, 1987 edition, pages 26-27).
Letakkanlah seluruh kepercayaan Anda di dalam Yesus. Itulah apa yang dimaksudkan dalam teks kita ini, “Supaya setiap orang yang percaya kepada-Nya tidak akan binasa…” (Yohanes 3:16). Dan itu membawa kita ke poin keempat dan ini adalah poin terkahir.
IV. Keempat, ayat ini menjelaskan kepada kita berkat-berkat yang kita peroleh dari menerima pemberian Kristus itu.
Perhatikan ini, dan mari kita baca dengan suara keras.
“…supaya setiap orang yang percaya kepada-Nya tidak akan binasa, melainkan memiliki hidup yang kekal” (Yohanes 3:16).
Ketika Anda datang kepada Yesus melalui iman dan percaya “ke dalam” Dia dengan iman Anda menerima dua keuntungan seketika itu juga. Yaitu yang pertama, Anda tidak akan binasa. Ini berarti Anda tidak akan masuk ke dalam Neraka. Tak seorangpun yang telah percaya kepada Yesus, tak seorangpun yang telah percaya “ke dalam” Yesus akan binasa dalam nyala api Neraka. Mengapa? Karena Yesus berkata,
“Aku memberikan hidup yang kekal kepada mereka dan mereka pasti tidak akan binasa sampai selama-lamanya” (Yohanes 10:28).
Anda memiliki jaminan kekal, diselamatkan untuk selama-lamanya, pada saat Anda percaya Yesus dengan datang kepada Dia dalam iman, walaupun mungkin iman Anda kecil dan lemah. Yesus lah yang menyelamatkan, bukan jumlah iman yang Anda miliki.
Jadi, hasil pertama dari percaya di dalam Yesus melalui iman adalah bahwa Anda tidak akan pernah binasa. Anda akan terhindar dari kematian ke dalam hidup seketika itu juga pada saat percaya kepada Dia, datang kepada Dia dalam iman.
Hasil yang kedua, ketika Anda datang kepada Yesus dan percaya di dalam Dia, adalah bahwa seketika itu juga Anda akan menerima hidup kekal. Anda dilahirkan kembali ke dalam kehidupan kekal, dan itu tidak dapat dibatalkan dari Anda untuk selama-lamanya. “Mereka tidak akan pernah binasa” (Yohanes 10:28).
Betapa ini adalah janji yang ajaib! Betapa ini adalah pengharapan yang begitu mulia! Mari kita berdiri sekali lagi dan membaca Yohanes 3:16 dengan suara keras.
“Karena begitu besar kasih Allah akan dunia ini, sehingga Ia telah mengaruniakan Anak-Nya yang tunggal, supaya setiap orang yang percaya kepada-Nya tidak binasa, melainkan beroleh hidup yang kekal” (Yohanes 3:16)
Apakah Anda mau percaya di dalam Yesus, percaya di dalam Dia, “meletakkan” di atas Dia, seperti Spurgeon meletakkannya? Jadi, sambil kita menyanyi, dan ketika kita menyanyikan bait terakhir dari lagu ini, silahkan lipat bangku Anda dan berjalanlah ke belakang, tepat di belakang ruangan ini. Dr. Cagan, Mr. Mencia dan saya akan ada di sana membantu membimbing Anda. Kiranya Tuhan memberkati Anda dan menolong Anda untuk percaya kepada Yesus pada pagi ini. Mari kita berdiri dan menyanyikan bait terakhir dari lagu ini. Keluarlah ke ruangan belakang sambil kita menyanyi dan Dr. Cagan akan menuntun Anda ke ruangan kantor saya di mana kita dapat berbicara bersama-sama di sana.

“Dari kongkongan malam kelam,
Yesus, Tuhan, aku datang:
Kini hidupku girang, tentram:
Pada-Mu ku dating.”
(“Jesus, I Come” by William T. Sleeper, 1819-1904).

(AKHIR KHOTBAH) Anda dapat membaca khobah-khotbah Dr. Hymers setiap minggu di Internetdi www.realconversion.com. Klik on "Sermon Manuscripts."

Diterjemahkan oleh: Dr. Eddy Peter Purwanto @ http://www.sttip.com
Pembacaan Alkitab Sebelum Khotbah oleh Dr. Kreighton L. Chan: John 3:14-18. Lagu Solo Sebelum Khotbah oleh Mr. Benjamin Kincaid Griffith: “Jesus, I Come” (by William T. Sleeper, 1819-1904).


Oleh: Dr. R. L. Hymers, Jr.Diterjemahkan oleh: Dr. Eddy Peter Purwanto

GARIS BESAR KHOTBAH
KASIH ALLAH UNTUK MANUSIA YANG TELAH JATUH KE DALAM DOSA
Oleh: Dr. R. L. Hymers, Jr.
“Karena begitu besar kasih Allah akan dunia ini, sehingga Ia telah mengaruniakan Anak-Nya yang tunggal, supaya setiap orang yang percaya kepada-Nya tidak binasa, melainkan beroleh hidup yang kekal” (Yohanes 3:16)